6話
それからの茉莉は、本当の意味でも大変な日々が始まった。
姿勢。歩き方。装飾品の価値。いいものを身につけるために、必要な知識。
社会的なルールの数々。
良家の妻になった時の、人との付き合い方等・・。
そして、大まかな財務に関する法律。出来上がった会計書類の見方・・など。
徹底的にしごかれた。
必死に覚えようとする茉莉に、叱咤の声がかからない日などなかった。
「生まれが生まれだから、仕方がないのだろうけど、どういった按配で、そんな行動がとれるだろうね。」
「この花にはどれが合う?」
そんな花を選んでどうするの。自ら貧乏くさいのを、宣言しているようなものでしょうに。
祖母の声は、それは厳しいものだった。
彼女の勧めで、お茶にお花。ダンス教室にも通い始めた。遅い時期から始めたピアノなどは、指が付いて来れずに苦労した。
叱られているうちが“華”だと思うくらいだった。
祖母から受ける教育は、生半可じゃない程に大量だったが、それだけに一般の庶民だったら、身に付けれる物ではないと、さすがに茉莉にも実感できるものだったからだ。
そして、祖母は必死だった。
茉莉の側にいる時に、目の色が変わる程に厳しい視線の中に、かすかだが憐みの混じったものを感じた時、
(純粋に良家の血筋に生まれていれば、こんなにも苦労する必要なんてなかったのに・・。)
そう言った声が聞こえた気がした。
その時、茉莉は心から自らの出生を恥じた。
七転八倒しながらも、徐々に教養を身につけ出した茉莉に対する祖母の視線は、次第に穏やかなものに変わってゆく。
褒めの言葉一つとしてかけられる事はなかったが、いつの間にか彼女に認められたいために、頑張る自分がいた。
茉莉が中学2年になった時。
そんな生活が突然、幕を落とされる事となる。
祖母が脳卒中を起こして倒れ、あっけなく亡くなってしまったからなのである。
彼女からの『よくやった』の一言が聞けないようになってしまった。
・・・通夜の席で、ソッと多岐に呼ばれて渡されたのは、一冊のアルバムだった。
「大奥様からの、遺品です。茉莉様にお渡しするようにと、生前。言いつかっておりました・・。」
途中で涙をこらえて、彼女が立ち去った後に、残された茉莉は、その場でアルバムを開く。
(!)
若かりし頃の祖母の写真だった。
(・・なぜこんな服装をしているの?)
一瞬、目を疑った。
彼女は、女中姿をしていたからだ。
かすりの着物に、たすき掛けをし、手拭いを頭に巻いた若い祖母は、とても戸惑った表情をしていた。
まるで仕事の途中で呼ばれて佇んでいる感じで、彼女をそんな表情をさせる当の本人だろう。
涼しげな和装を着こなした若い男性が、隣に立っていた。
そんな写真は、たった一枚だけで、他の写真は、すべて高野の嫁として、そして夫を亡くした後も、家を支える女主人の姿が映し出されていた。
当時は写真も、とても珍しかっただろう。
枚数もそんなにないアルバムは、そのまま苦労した祖母の歴史だった。
「大奥様も、私とおなじだったんだ・・。」
女中あがりで、正妻の座に座った祖母は、それこそ大変な思いをしたはずだった。
往年の彼女からは、想像もできない姿だったが・・・。
大変な思いをしたからこそ、祖母は茉莉に教えてくれた・・。
それが分かった茉莉は、初めて泣いた。
何よりも、突然の祖母の死は、そのまま茉莉の教育が済んでいない事の証拠でもあった。
突然、行き先を指し示す導師を失った茉莉は、灯台が消えた海に漂う、小さな船のようなものだ。
どこへ向けば、陸に付くのか、途端分からなくなってしまったのだった。
それでも、前に進まなければならない。
祖母の葬儀を終えてしばらくしてから、高野の実家に戻った茉莉は、本家で教えられた数々の訓示を、忘れないよう肝に銘じて過ごすようになる。
そこへきて、河田武雄との婚儀の話だ。
(・・・大奥様に、鍛えられた私だもの・・・きっと、務まるはず・・・。)
心の中で、つぶやく茉莉の瞳が揺れた。